仰々しいというか大げさな人たちがたくさんいるなあ

テクノロジー : 日経電子版

秋葉原事件で融解した「野次馬」と「報道」の境界

 週末、秋葉原で起きた通り魔事件は大変痛ましいものだった。事件そのものだけでなく、犯人逮捕の瞬間を撮影したり、現場から「生中継」が行われたり、マスメディアよりも早く、詳細に、普通の人々によって事件が記録、発信されたことのインパクトも大きかった。(ガ島流ネット社会学

 ブログなどの登場によって「誰もがジャーナリスト化」したことは数年前から議論してきたが、変化の大きさや社会に与える意味は起きてみて初めてわかる。「野次馬」と「報道」の違いとは何か、マスメディアの正当性とは、メディア化した個人の倫理はどうあるべきなのか……。事件はさまざまな問題を浮き彫りにしている。

■ネット上の生中継に賛否

 事件は秋葉原という「電脳都市」で起きただけに、インターネットに一次情報が上がるのは早かった。現場にいる人々によって、ブログや掲示板、動画共有サイトなどを使って事件が報じられた(例えば、事件時に秋葉原にいたというブログ「筆不精者の雑彙」にはイラスト付きで詳細な記録が公開されている)。

 携帯電話、デジタルカメラで事件が記録され、マスメディアの報道は読者・視聴者提供の素材であふれた。目撃者を取材することよって作られるマスメディアの報道内容は、その場にいた人の生の声にはかなうはずもない。

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個人が動画で生中継できる「UstreamTV」

 UstreamTV と呼ばれる動画配信サイトで現場から生中継が行われたことはひとつのエポックだろう(UstreamTVは録画を押さなければ映像は消えてしまうので現在は残っていない。映像は凄惨なものではなく立ち入り禁止区域外から撮ったものであるようだ)。ウェブカメラ付きのパソコンなどの機材の普及、モバイルなどの高速データ通信の普及とウェブサービスの発展によって、世界に向かって映像を発信することもできるようになった。 このような現場からの個人の情報発信にはネット上でも賛否両論が寄せられている。「9/11やロンドンのテロのような市民ジャーナリズムなのではないか」という意見もあれば、「やっていることがマスゴミ(マスコミとゴミを掛け合わせた言葉)と同じ」「社会的に意味があるのか」「映像を撮るぐらいなら人を助けるべきだ」という批判もある。

 UstreamTVで中継を行ったブログ「Recently」を運営しているkenan氏は「秋葉原刺殺事件に遭遇して」とのエントリーで配信時の気持ちを書き綴っている。

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通り魔事件が起きた秋葉原の現場周辺=8日〔共同〕

 『これはただの報道ごっこであり、そんなの撮るんじゃない。不謹慎だ。とか思われるだろうし、警官の人にも「人の不幸を撮って楽しいか?」とか言われました。

たしかに最初は面白そうだし、映像のネタになるだろうから。。。というのが配信をした動機だし、配信初めて視聴者が1000人超えた当りでかなり興奮しててただ撮ることに必死でした。

 これはかなり楽しんでいたと思います。

 もしかしたら報道のカメラマンはこういう気持ちになってる人もいるんだろうなぁ〜そんな気持ちの中ひたすら撮って、みんなの反応を見ていた』

 もう一人、ブログ「ぐんにょりくもりぞら」のLyphard氏もUstreamTVで動画を配信した。『私はあの場でustで中継しました。それはついさっきまでリナカフェの状況を中継していたのと何ら変わらない。ただ、その場での出来事を、あの場の空気を中継したかったからした。ただそれだけでした。野次馬根性がなかったとは言い切れません。 ustの閲覧者が増えていき数百人を超えた辺りである種の高揚感があったのも認めます。そんな私は不謹慎なのでしょうか?』とブログで振り返っている。

 この二人のエントリーはある意味で報道、ジャーナリズムの本質を突いている記述だ。

■誰もがメディアを持つ時代の倫理とは

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YouTubeなどの動画投稿サイトには個人が撮影した事件現場の複数の動画が投稿されている

 報道カメラマンはファインダーを覗くと「どんな危険な場所にもいける」という。元上毛新聞記者の横山秀夫が書いた小説「クライマーズハイ」では、凄惨な墜落現場を見た記者は「壊れ」、現場を踏めなかった記者は嫉妬し、記者出身の広告部長が「現場を踏んだ」ことを語るために山に登るシーンが描かれる。有名な話だが、ピューリッツァー賞を受賞した、ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている『ハゲワシと少女』では「なぜ少女を助けなかったのか」という議論が起きた。「現場」は正義感や社会的意義だけで語れるほどきれいなものではない。

 私も新聞社時代に何度も事件・事故現場を取材したが、ある種の興奮状態に陥ることは確かだ。そしてカメラのシャッターを押すとき、その場に居合わせた人(場合によっては遺族だ)に取材をするとき、kenan氏と同じように「人の不幸を報じて楽しいか」と批判を受けたこともある。

 自分の取材活動は単なる「野次馬」なのか「報道」と言えるものなのか、新聞記者時代は自分の中で容易に答えがでるものではなく、常に「これでいいのか」と悩みながら取材をしていたが、中には「これはゲームだ」と言ってはばからない記者たちもいた。

 誰もが発信できる時代には、これまでマスメディアの人たちが経験した葛藤が誰にも起き得ることを示している。

 そして、誰もが発信できるとなると、「野次馬」と「報道」の違い、そしてマスメディアの正当性も揺らいでくる。はてなブックマークには『マスコミが伝えると「報道の責務を果たす」になって、個人が伝えると「野次馬」というのは軸としておかしい』『「撮っていい人」と「撮ってはいけない人」を分け隔てているのは何だろう。カメラの口径?職業意識?倫理観?「報道」の腕章?そもそもそんなものがあるのだろうか』というコメントがあった。

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通り魔事件で騒然とする現場。多くの通行人が心配そうに見守るなか、カメラや携帯電話で撮影しようとする人の姿も目立つ

 誰が「野次馬」と「報道」の境界を明確に説明できると言うのだろうか。

 例えば、「マスメディアには人々=パブリックに事件を伝えると言う社会的な役割がある」と言う人もいるかもしれない。しかし、ネットであればブログでも何十万、何百万というユーザーに記事が読まれる可能性もある。もはやマスメディアだけがパブリックを代表しているわけではない。

 メディアスクラムやセンセーショナルな報道は、これまでマスメディアの倫理、報道姿勢を批判し、責任を問うていればよかったが、これからは個人も無関係ではいられない。マスメディアを「マスゴミ」と批判していたネットユーザーも、自らがそのマスゴミにいつでもなり得る可能性があることも明らかになった。

 表現活動は誰かを傷つける可能性を持つ。誰もがメディアを持てる時代に、どの報道や情報発信が「正当」かという話はもはや無意味な問いなのではないだろうか。誰もがメディアを持った現実を受け止め、より良くするために一歩踏み出すためにどうすればいいか考えるべき時に来ている。

(文中の引用箇所は原文ママ

メディアスクラムやセンセーショナルな報道は、これまでマスメディアの倫理、報道姿勢を批判し、責任を問うていればよかったが、これからは個人も無関係ではいられない。マスメディアを「マスゴミ」と批判していたネットユーザーも、自らがそのマスゴミにいつでもなり得る可能性があることも明らかになった。

そもそもあの映像には上記に該当するような映像は含まれていない。
僕がそもそも疑問なのはリアルタイムにUstを見ていた人から否の意見が全くと言っていいほど出てきていない点だ。
否を唱えている人間はすでに現実の世界観から外れていて原理原則だけを声高に吠えている古代人のように感じる。